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木彫は楽しD



―――――余 談――――


喜寿を迎えて
 とうとう77歳、“喜寿”を迎えた。年を重ねると誕生日なんて嬉しくもなんともないけれど、子や孫たちに「おめでとう」を言われると、ハッピーな顔をしなくてはならい。
 父は77歳で亡くなった。私は年相応〜人並みに病や体調不良を経ながらも、現代医学のお陰で余命を保ち、趣味を楽しみ、子孫の成長を見守ることができるのだから、やはり素直にハッピー・バースディを祝っていいのかもしれない……と、幼い孫たちのウケをねらって、記念のマンガを描いた。

 私自身はこんな浮かれた気分ではない。“喜寿”を期して、新たに「カーヴィング講座」(道新文化センター)を受講することにし、さらに高度な木彫技術を学ぶ決意である。
 猫を彫る力瘤あり喜寿迎う 良二 2017/4/8


喜寿記念マンガ



ニャン賀状でご挨拶
 新年おめでとうございます−両手をついて挨拶しているように見えれば幸い、日向ぼっこの猫の形です。
 ニュースを見るたび、嘆き、腹立ちを抑えられないこのごろ。下界のことと達観していたいのですが、どうも神ってる(使い方間違いかな)心境になりきれない。正月くらい日溜まりをみつけ、温みを逃がさぬよう体を丸めて、ほっくりしていたい。健康で心豊かな一年でありますように。2017/1/1

2017年賀状



スローな仕事
このごろ、木彫作品が完成するまで、時間がかかるようになった。
いままで一つ仕上げてから次作に進むというやり方で進めてきた。大体、1〜2か月に1作というペースだった。それがこのごろ、どうもその期間内に完成させられなくなっている。制作途中でこのあとどうするか、決断するのに時間がかかるようになった。数年前までは頭にイメージがまとまっていなくても、彫っていればできちゃうという感じだったのに……。

これが老いという現象か。年賀状の添え書きに、そろそろスローライフに切り換えます、なんぞと書いていたのだが、言葉だけで自覚はなかった。それがフェードインするようにゆっくり現われてきた。私は、来年喜寿を迎える。


先日、横尾忠則さんのテレビ番組を見た。80歳になったというポップアートな画家のアトリエには、描きかけの絵が何点も並んでいた。カメラが入っているのに、ぐずぐず画集をめくったり、ぼんやりしていたり、そのうちに散歩に出かけた。なかなか仕事をしない、まるで急ぐ風がない。

翌日、やっと描き始めたが、いくらもしないうちに止めてしまった。で、最初からこのように描こうと思ったのか、との問いに、黒いバックにしようと思っていたが、絵の具を選んでいるうちに忘れて焦茶色になったと言ったのには、笑ってしまった。でも、これもいいのでないかと思う、という。もちろん、まだ途中経過、未完成の状態だ。未完成の作品を放っておき、時間をおいて、その絵ともう一度出会うと、新鮮に見えることもあるらしい。どうも、放っておくことも大事なことらしい。

画家は今後どこに向うのか、インタビューに答えていた。
「肉体は退化するかもしれないが、創作意欲は退化しない」
「いい絵が描けないから引退しますとはいわない、いい絵が描けない状態を体験したい」
「体力も衰えてくるし作品も劣ってくる、そういう作品をみたい。頑張って描いた作品は重苦しい。作品に力がなくなってくるのは精神が軽くなっているのでは……」

そのうち、猫の話になった。
(愛猫が2年前に亡くなったそうで、会いたいときに猫の絵を描くという。アトリエに猫の絵が何枚もあった)

「猫はアーチストの鏡だ。わがまま、気まま、妥協しない。どんな場合でも虎視眈々と遊ぶことを考えている」
「猫の性質はアーチストが持っていなければならない性格だ。ぼくの先生でもある」
「創作の原点は遊びにつながる。大義名分のためでなく、描くことが目的なんだ」

そうだ、猫を彫っているのに気づかなかった。私が猫のようになればいいのだ。ジャレること、遊ぶこと。いつまでにやらなければならないなんてことはないのだから、3か月かかろうが半年かかろうがなんら支障があるわけではない、要するに面白がっていればいいのだ。面白くないなら放っておいて、面白くなるまで待っていよう。スローライフのあり方を見つけた。

横尾さんの言葉に力づけられた、いや違う、力を抜いてもらった、と言ったほうが正しい。なんか体も気持ちも軽くなった。2016/12/20


来訪者たち
 毎週水曜日、道民活動センター“かでる2・7”の6F創作室で温故の会の例会が開かれる。先日、しのぎやすい気温になりドアを開け放して作業をしていると、廊下を幼児が歓声を上げながらバタバタ走る。何度も行ったり来たりしている。同じ階の別室でお母さんたちのバザーのような行事があり、連れてきた子供たちが飽きて、走り回っているようだ。

 ドアの近くにいた会員が「おいで」と手招きしたら、3人の子(男2人、女1人)が物怖じせず入ってきた、そして「あ、猫だ」と言った。
 ちょうど私は“アビシニアン”を制作中で、そろそろ仕上げ彫りに入る段階だった。みんな私の猫のところに集まってきた。木彫を見るのは初めてのことらしく、興味津々の目付きだ。
 机の上の、取り散らかした彫刻刀を寄せてずらし、
「これは手を切ると血が出るからね、触っちゃだめだ」
「そばで見てるのはかまわないよ」呼び入れた会員が言った。
「みんな何歳?」と聞くと、「5歳」とか「4歳」とか言って、指を出す者もいた。
 おずおず一人が質問を始めた。
「猫つくってるの」
「そうだよ」
「どうしてつくってるの」
「面白いからさ」
「服、汚れるしょ」木屑を見て女の子が言った。いつもお母さんに注意されているようだ。
「だから、エプロンを着てるんだ」
「ふうん」

 仏像を彫っている会員が後ろから言った。
「欲しかったら持ってっていいよ」
 男の子がためらいがちに、
「ぼく、お母さんに聞いてくるかな」
「持って行かれたら、オジイさんすることなくなっちゃうよ」
「…………」
 男の子は私の前を通り過ぎて、後ろの机で仏像を彫っている会員のほうへ行った。
「それ、人間なの?」
「うん、まあそうだな」
「頭、禿げているんだね」
「うん、まあ、そんなわけでもないが」
「彫っている人に似るんだ。そのオジイさんの頭とおんなじ」私は仏像を彫っている会員に仕返しを言った。
男の子は、ふうん、とは言わなかった。

 3人の幼児は、会員たちの所をひと回りして彫っているものを眺めてきたが、また私の所に集まった。猫にいちばん興味があるらしい。彫刻刀を置き、一休みする気で猫を前に押しやる。
「触ってもいい?」
「いいよ」
 男の子が木彫猫の頭を撫ぜると他の子も順番に撫ぜた。
 足元に彫った木屑がいっぱい散らかっている。一人がしゃがんで手でつまんだ。
「それ、猫のウンコなんだよ」と言うと、
「えーっ、嘘」と驚いて手の臭いをかいだ。
「木の猫だから、ウンコも木なんだ」
みんなしゃがんで、削り屑を拾って臭いをかいでいる。
「ウンコだ、ウンコだ」歓声をあげて喜んでいる。

 そのうち、廊下が静かになったのでお母さんが心配したらしく探しにきて、開けたドアの横から顔を出した。
「だめよ、おいで」と叱り、「申し訳ありません」と私たちに謝った。
「かまわないんですよ」
「バイバイ」と幼児たちは手を振って出て行く。
「バイバイ」会員たちも彫刻刀を持たないほうの手を振る。
ある例会日の幼老交歓の一コマ。2016/4/29


迎春 しなやかに臨機応変に
 健康で幸せに! 年頭に誰しも願うこと。しかし、何が起こるかわからない時代だ。臨機応変に身のこなしができるよう、インナーマッスルも鍛えておこう。ということで、獅子舞ならぬ“猫の舞”。
 ……どうも世の中、キナ臭い。危ないところに近づきたくないのに、だんだん近づいている気がする。身を翻す猫のように、流れを逆転できないものか。2016/1/1

2016年賀状


猫を彫る−『工芸通信』に紹介
 木彫に関する拙文が『工芸通信』10月号(北海道美術作家協会)に掲載された。木彫猫を抱いた写真まで載っているのだが、老いた顔をあまりさらしたくないので、ここには本文のみ転載する。2015/10/27

                                         


 老後の楽しみに木彫を始めた。立体彫刻としては仏像を彫る人はいるが、私がやりたい小動物や野鳥の彫り方を教えてくれる人が近くにいなかったので、やむなく独学我流でやってきた。道美展には友人に誘われて応募し、3年連続受賞して会員になった。最初の猫作品がウケたので、以後一貫して猫ばかり出展している。
 猫を彫る面白さは、形のバリエーションの多様なことだ。下絵の参考にインターネットの猫サイトから写真をパクリまくる。猫好きの人は凝り性が多いらしく、愛猫のさまざまな写真を公開している。しかし写真はこっち側しか写っていないので、向こう側がどうなっているか想像つかないポーズもある。わが家で猫を飼っていたのは、娘たちが小・中学生の頃(もう30年も前のこと)で、今は飼っていないから細部を観察できない。
 困ったときは近くの“猫カフェ”に出かけていく。立体としての姿形だけでなく、筋肉や骨格など毛皮に隠れた部分も触って確かめる。彫りかけの作品を持ち込んで、観察しながら彫ったこともある。猫たちは私を取り囲み、何やってんの変な爺さん、と逆に彼らに観察されていたようでもあった……。
 最近は笑わせたいとの意図で制作している。ユーモラスな作品は彫るのが楽しいし、見ていただく人の頬に微笑が浮かんだら、“共感”を得たと思うことにしている。道美展が、こんな遊び半分の、小さな癒しを受容していただけるのはありがたい。


ウッドバーニングの勉強
 ウッドバーニングに関して、日本国内にはいい参考書が全然ない。アメリカのサイトによさそうな本があったので、Amazonを通じて買い求めた。当然ながらすべて英文。英語は苦手だから、大事なテクニックと思われる個所を翻訳サイトで拾い読みしたが、珍訳・迷訳で頭がこんがらがることもしばしば。

 たとえば、バーニングペンで焼いたあと、色鉛筆で着色する方法を解説した個所。
「Do not force the pencil point into the woodburned strokes;
instead, let the color lie on the high ridges between those strokes.」

 複数の翻訳サイトを開いて翻訳してもらうと、どこもこんなことになる。
「鉛筆点をwoodburnedされた脳卒中に押し込まないでください;
その代わりに、色にそれらの脳卒中の間に高い峰にあらせてください。」

 「脳卒中」が出てきたのには困惑した。まるで意味がわからない。どうも「stroke」というのがそれらしい。辞書を引くと、
【stroke】「打つこと、打撃、一突き、一撃、発作、脳卒中」とあった。さらに「鳥の翼のひと打ち、クリケット・テニスの打球、水泳のひとかき」などとも。

 この「水泳のひとかき」という言葉から、その動作をしてみて意味がわかった。よくワン・ストロークなんていう、要するにバーニングペンで焼き焦がした、えぐった状態の溝〜窪みのことだな、と。
で、私の意訳は、
「(色)鉛筆の先をバーニンクした焦げ目に入れないでください。
焦げ目と焦げ目の間(板の表面)に色を塗ってください。」

 幸い写真が多く載っているので、よくわからないところは類推して進んだ。お手本のパイログラフィー(Pyrography=焼き絵)を真似て、初めて焼いてみた鹿の絵(桐の板)が下図。色鉛筆も買ってきたのだけれど、翻訳に疲れてしまって塗っていない。2015/1/21

英語の参考書 初めての焼き絵



孫が木彫猫に挑戦
 小学6年生の孫が、冬休みの自由研究に猫を彫りたい、と言い出した。小6で猫の彫刻は難しすぎる気がしたが、日ごろの爺ちゃんの手作業をみて影響を受けたとあれば嬉しく、これも体験と意欲に応えることにした。下絵描き−鋸で木取り−叩き鑿で粗彫り−彫刻刀で仕上げ、と何度も軌道修正しながら、手順をやり通した。可愛い孫が彫った可愛い猫に、ハナマルをあげよう!2015/1/15

爺ちゃんの指導で完成
初挑戦に“ハナマル”


木彫猫の年賀状 “若水”で邪気払い
 毎年、干支を無視して、猫の木彫を年賀状のデザインにしている。今年は「水を飲む猫」で、“若水”のイメージのつもり。“若水”とは、元日の朝の初めて汲む水のこと、それは一年の邪気を払うという。
 実際、おいしい水を飲むと心身ともに爽快、生き返った気持ちになる。なにやら行先知れぬ濁世の新年、みなさまに「蘇生の刻」となりますように。2015/1/1

2015年賀状


青いマニキュア
 いつぞや、プロの木彫家の作品展で、アシスタントらしい人から木彫動物の目にマニキュアを塗るという秘訣を聞き出した。乾いては塗り乾いては塗りすると生きている目のように光るのだ、と。しかし、そういう女性の化粧品専門店みたいところに、年寄り爺が出入りできるものか、シャイな私としては実際に探す行動をとれないでいた。

 先日、地下鉄に乗ったとき(いつもは青いシートに座るのだが、あいにくふさがっていたので)一般席に座を占めた。すると隣に若い女性が座った。私には派手すぎる服装に思えたが、今どきの娘さんなら普通かもしれない、と思って何気なく手元に目がいったら、爪(ネイルというのか)が青く光っていた。
 その色は、私がめざす猫の青目にぴったりの、淡いが深い透明感のある青だったので、吸いよせられるように見つめてしまった。で、すぐ聞いてみようと、口を開きかけたのだけれど、いや待てよ、変態爺のように思われたら困るなと感じて、気持ちが臆した。とうとう娘さんが降りていくのに声をかけられなかった。

 あの時、もし声をかけたら、娘さんは私の説明を聞いてくれただろうか……。
「とても素敵なネイルですね。実は、私は木彫を趣味にしていて、主に猫を彫っているのですが、その猫の目の色を表現するのに苦慮しています。あなたのマニキュアはちょうど私の理想とする猫の目にぴったりの色なのですが、それはどこの店で売っていた製品ですか?」
 果して、こんな話をしまいまで聞いてくれただろうか。聞きたいことはもう少しある。
「猫の目は光彩が一色ではなく、グラデーションがかかっています。あなたのその色をベースにしたとして、さらに同系の濃い色〜薄い色も売っているでしょうか? そして、その値段はいかほどのものでしょうか?」

 だめだな。若いイケメンならともかく、薄汚い爺が話しかけたのでは、痴漢が寄ってきたとしか思われないだろう、声をかけないでよかった。それにしても、あの透明感のある青を手に入れることができたら……ああ、惜しかった、残念無念。2014/8/24


またまた笑った猫川柳
 ときどき検索する猫川柳がけっこう溜まってきた。で、第2弾(?)ということで最新選抜10句を列挙し、一掬の笑いに供したい。前回同様、作者に敬意を表し柳名も掲載。またおしまいの句は自作なので、全然笑えない場合はお許しを。2014/2/22

 体脂肪計 試しに猫をのせてみる 寿々姫

 リモコンを猫に向けたらシッポ振り ひろちゃん

 いい柄の毛皮ステキと猫に言い ありの実

 ほらなでろみたいに猫がヒザに乗る 猫オヤジ

 猫にまでシールを貼って帰った子 山上秋恵

 孫の声聞こえて猫は姿消し 中林照明

 ケンカだが妙にハモっている猫ら 八寿代

 服に毛が うちの猫(こ)のではないと妻 忠公

 野良猫が長さ読んでるポチの紐 麦そよぐ

 畦道で蝶を逃がした猫に会い 良二


アントニオ・ロペス、執念のリアリズム
 『現代スペイン・リアリズムの巨匠 アントニオ・ロペス』を図書館から借りて読んだ(画集だから「観た」とういうべきか)。

 この画家は30歳頃から写実の極致に挑み、「洗面台と鏡」「トイレと窓」など身辺の光景を迫真の超絶技巧で描き出す。ページを繰るたび、その精緻さに驚愕、感嘆した。
 さらに説明を読んで驚いたのは、その1枚の絵に気が遠くなるような厖大な歳月をかけていること。マドリードのメインストリートを描いた有名な「グラン・ビア」は同じ場所〜同じ時間に7年間も通って描きあげたというし、「バリューカスの消防署の塔から見たマドリード」は16年もの年数を費やした。また彫刻も手掛けており、木彫「男と女」は展覧会に出品した後も手を加え、最初の制作から26年間にわたって修正を施している。

 世界的巨匠の芸術作品と、私のつまらない小動物のまがい物とでは、全然比較にならないのだけれど、作品の出来にいつまでも満足できず、現在も手を加え続けている姿勢に、同じ性分を感じた。この執念、見習うべし。

 ロペス氏の木彫刻は、X線で調べると大小数多くの木片が組み合わされ、ネジやクギで固定、接合部分は接着剤やおが屑で隠されているそうだ。私の所属する木彫グループは、みんな一木彫りにこだわる伝統木彫を志す、いわば「木彫とは引き算である」と考える人ばかり。だから彫ってうまくいかなかったら削り落とし木を継いでまた彫る“足し算”方式は邪道といわれるかもしれないが、巨匠の創作姿勢〜手法に、仕来りから解放される気持ちにもなった。2014/1/28


今年も ハッピー・にゃあ・イヤー
 年賀状はその年の干支を図案化するのが常識のようだが、常識のない私は毎年、木彫猫を入れる。木彫をやるようになってから頑なに押し通し、いまや年賀状は作品発表の場でもある。今年は趣向を変えて「怪しい奴」にした。
 招き猫ならともかく睨む猫なんて正月にふさわしくない、という人がいるかもしれない。年の始めの挨拶だから、希望や元気を表す図柄にすべきだとは思う。しかし、これは私の気に入った作品。アイデアも彫りや塗りも自分のベスト、こんなのが表現したい世界なんです。どうか、己の姿とも知らず威嚇する子猫に初笑いを、そして今年も福が訪れますように。2014/1/1

2014年賀状


野良猫ニャジラ 庭先通るも他生の縁
 奴はわが家の周辺をテリトリーにする野良猫のボスだった。のっそり悠々と歩く姿は薄汚れているけれど、いかにも風格があった。当時人気の漫画に登場するデブ猫のニャジラに似ていたから、うちの家族は誰いうとなく、そう呼んだ。ときどき餌をやったら立ち寄るようになり、ベランダからぬっと家の中を覗いて、物欲しげな顔をしていることもある――写真はそのときの1枚。チックはおそれて部屋の隅で唸っているだけ。
 毎日のように来るようになって馴れたと思い、口移しで餌をやろうと私は煮干しをくわえ、ベランダから首を伸ばして誘ってみた。奴は一旦逃げたものの、臭いに負けて近づいてきた。うまくいきそうと思った瞬間、奴の右フックが顎にとんできて煮干しを落とし、あっという間に持っていかれた。唇の端に痛みを感じて、触ってみると血が出ている。恩を仇で返すとは……離れた場所でうまそうに食っているニャジラに腹が立った。しかし奴はこうやって餌を掠め取って生きてきた、それしか方法を知らないのだ、と抑えて、爪痕を消毒しサビオを貼って我慢した。2013/12/5

野良猫ニャジラ
エサくれ顔の “ニャジラ”


チック残影−猫からの年賀状
 娘たちが小学生の頃、白いオス猫を飼った。知人のつてで近郊の農家からもらってきた。子猫なのに母猫の教育が行きとどいていて、まったく手間のかからない奴だった。狩りも上手で、スズメやらカエルやらを獲ってきては娘や妻に悲鳴をあげさせた。
 うちへきて初めての正月、この写真を貼った年賀状を猫の実家のMさん宅に送った。「みなさんお元気ですか。ぼくは今、チックと呼ばれ、家族みんなに可愛がられて、楽しく暮らしています」というような文面で……。猫からの年賀状にMさんの家族は大笑い、わが家の近くにある親戚の雑貨店に電話を入れた。三が日がすぎたころ、店の奥さんがやってきて「みんな感激してたわよ」と、知らん顔をしているチックに言った。
 写真は、スピーカーの上に乗ったチックを、ネコジャラシを振って見上げさせて撮った。背景の薄紫の花のせいで品よく写った。まだ成猫にいたっておらず、頼りなげなのが可愛い、と思うのは飼い主の感慨か。2013/11/24

飼い猫チック
かつての飼い猫 “チック”


電動ルーター修理、小ネジ探しに汗
 作品を彫り上げたあと、ヤスリをかけて研磨する手法をとるとき、電動ルーターを使う。先端ビットが各種あって、活用次第でかなり微妙な表現も可能になるが、私は補助的に使うことにしている。
 そのルーターが購入3年目にして動かなくなった。通販で買ったので、どうしたものか困った。説明書をみると、カーボンブラシという部品が磨耗したらしい。幸い予備のカーボンブラシがついていたので、精密ドライバーで交換を試みた。ところが、取り付けてある数ミリの小ネジが固くてなかなかとれない。いじくり回しているうちにネジ山を欠かしてしまった。むりやり押し回してやっと外したものの、小ネジは使いものにならない。
 ホームセンターで探すと、小ネジも多種多様、どっさり並んでいるが同じモノが見当たらない。店員に持参したネジを見せ、ノギスで測ってもらって、ビニール袋に入った小ネジセットを買ってきた。だが、なんと径が合わずゆるくて締まらない。再訪してクレームをつけ、今度はナットをはめて径を確認し、別なセットと取り換えてもらった。袋に同じネジはなかったが、数種類入っている中から同径の少し短かめを選び、再度カーボンブラシを取り付けると、今度はしっかり締めつけられ、正常に回転するようになった。

 老眼で細かい作業が雑になったこともあるが、ネジの知識を持ち合わせていなかったので、あれこれ時間を費やした。ネジは頭の形によって、皿ネジ、鍋ネジ、トラスネジなど数種あり、しかも頭と心棒のそれぞれに大小長短があって複雑きわまりない。たかが小ネジなれど、これがなければ何もできないことを思い知った。2013/5/23

電動ルーター微妙な表現に役立つ電動ルーター カーボンブラシの交換
カーボンブラシと小ネジ


73歳の誕生日に
 先週月曜日、孫たちから「誕生日おめでとう」のお祝い寄せ書きメッセージがFAXで届いた。70を過ぎると誕生日なんてちっとも嬉しくないのだが、可愛い孫たちには笑顔で対応するしかない。みんな、けっこうきれいな字を書いている。これは家系の器用な手筋が伝わっている証拠だ、などと老妻と語りながら、木彫りする爺の漫画を描いて返信した。
 折り返し、一番年長の孫(新学期に小学5年生になった)から電話がきて、「じいちゃん、面白かったよ」と感想を述べた。孫たちに笑ってもらえたようなので、爺の存在価値もいくらかあるというものか。2013/4/18

木彫りの漫画


年賀状−今年も猫、川柳を添えて
 例年のことながら、年賀状は1年間彫ったなかから年始挨拶に向いた作品を入れている。猫ばかりでなく梟や人形を見てもらいたい気もするが、けっきょくは猫になってしまう。で、2013年は「母子交歓」にした。いつも一言添え書きをする。ことしは下手な川柳を2句詠んで加えた。もちろん、年頭からふざけても怒らない人だけ対象に。2012/12/21

 雪の朝 猫の足あと梅の花
 エサ要らずふん処理もなし木彫うちの猫
2013年賀状


玄関か床の間か
 展覧会場で、私の作品の前に立ち止まった中年女性が話すのを、うしろで聞いていた。「こんなのほしいな、玄関に置きたいわ」と言った。ほんの一時間くらいしか居なかったので、他の来観者の感想は聞いていない。実は、わが家を訪れた妻の友人も、「こういうの玄関に飾りたい」と言っていた。奇しくも両者とも置きたい場所は“玄関”で、“床の間”ではなかった。
 床の間に置く物は、立派な家宝のようなものだろう。誰にでも見せるものではなく、座敷に通した特別な客にしか見せないのだから、家格を表す名品でなくてはならない。ところが玄関に置く物となると、訪れるすべての人の目に触れるわけだから、つまり「うちに来る人たちの誰にでも見せたいもの」ということになる。少し品位は下がるが、家人の共感を求める積極性を感じる。
 私は、床の間に置けるような作品をめざしたい、という気はさらさらない。玄関先でも窓辺でもいい、見た人にいっとき微笑を誘えたら……そんな作品をつくりたい。2012/9/20


私の好きな佐藤朝山
 私が最も好きな木彫家は佐藤朝山。といっても私は朝山の信奉者ではない。仏像や神話の神々の像なんか無信心な私には興味が湧かないし、むしろ伝統的な様式美を引きずっている気がして面白味を感じない。好きな作品は小動物を題材にした「牝猫」「鷹」「巣鶏」「山兎」「鼠」「蜥蜴」、それから「白菜」もいいな。何でもないような題材にすごい力量を感じる。
 作品はなにか異様な迫真に満ちている。見たとたん、目を惹きつけられ心を奪われる。小動物の形や表情から発する穏やかならざる真っ直ぐなもの、それは植物の葉っぱからすら発せられ、圧力を感じさせられる。天才のオーラというべきか。

 朝山は酒癖がわるく議論好きという、どうも付き合いにくい人だったらしい。フランス留学してブールデルに師事したが、酒ばかり飲んでいたという逸話もある。もし、タイムマシンでお会いできる機会があったとしても、ちょっと尻込みしてしまいそう……。弟子の橋本平八は従順に耐えたのだろうか。でも、まあ一晩くらいなら、一升瓶を下げて行ってやり込められるのを我慢できるかな。泥酔の底から本音を聴き出してみたい気もする。2012/8/11


彫刻と模型
 高村光太郎は『美について』のなかで、こう記している。

「模型は如何ほど巧みに出来ていても結局写しである。模型は受動的である。作者に何の根拠もなくて眼と手とによって自然形象を引写し、そこに多少の視覚的快美を求めたに過ぎないものを彫刻と目することは、なんだかおかしい」

「彫刻に対する人間の根本要求は、物の再現そのものにあるのでなくて、物の力学的抽象性の美に在るのだという見解をとりたいのである。(中略)ドルメン的性格をあくまで持つ彫刻性が発揮する特色としては、悠久感、物量感、均衡感、安定感、触知感、身をすりよせたいような頼もしさ、手中に入れてしまいたいような親しさ、仮現としての人生から実有としての根源美を抽出してくる清潔さ等々を考えることが出来る。現象はすべて抹殺される。およそ俗情は介入する余地がない」

 つまり私の彫っているものは彫刻にほど遠く、模型というべきもののようだ。自分を弁えたうえで、その“視覚的快美”をどこまで表現できるか、また“力学的抽象性の美”とやらに近づくことはできないか……遊び半分でやっていたのに、姿勢を正さなければならない気持ちになった。2012/5/3


思わず笑った猫川柳
 猫を彫ることが多いので、その参考に猫のいろいろなポーズの写真を集めている。猫サイトは実に多いし、なかにはプロ並みの撮影者もいて、彫りたい意欲を刺激するショットとの出会いが嬉しい。話は逸れるが、ついでに猫川柳を集めてみたら、これもけっこう多い。猫はやっぱりユーモラスな表現に向いているらしい。思わず笑ってしまった10句を下に(ただし最後の句は私の作で、面白くないかも)。これ、著作権はどうなるか。短いから許されるというものではなかろうから、作句者に敬意を表し柳名も掲載させていただいた。2012/2/22

 猫の名を聞けばオレオレ電話切り やーちゃん

 あくびする猫を見ていてあくびする 航さん

 新聞紙広げりゃいつも猫すわる たけのこ

 疲れたら猫もやってる横座り 頓馬天狗

 「猫かな?」と言ったら孫は猫の声 鉄爺

 ままごとでのら猫の役する息子 みなちゃん

 あんなにも俺を捜すかネコ不明 永石真丸

 つまみ食い見ていた猫に少しやり 柏原のミミ

 退屈し猫かぶりつく俺の足 北川修二

 炎天下 木蔭探して猫に逢い 良二


「年賀状と猫」 ハッピー・にゃあ・イヤー
 年賀状に自刻の木彫作品を入れている。ここ数年、猫のいろいろなポーズを彫っているので、毎年猫を登場させることになる。しかし、干支に猫は入っていないから、年始挨拶にそぐわないという人がいるかもしれない。
 なぜ猫が干支に入っていないか。子供のころ聞いたうろ覚えの記憶……お釈迦さまに動物たちが拝謁することになった。猫はその日がいつだったか忘れ、鼠に聞いた。鼠は意地悪して実際の訪問日の次の日を教えた。それを真に受けた猫は翌日顔を出したので間に合わず、十二支リストから外されてしまった。以来、猫は鼠をみると怒って追いかけるようになったそうな……。
 かなりいい加減だが、まあこんなことらしい。で、干支に関係ないなら、毎年、猫を登場させてもかまわないと考えた次第。ちなみに私の誕生日は4月8日で釈迦降誕の日と同じなのだ。だからどうだ、というわけではないけれど。2012/1/1

2012年賀状

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